生理用品と古書の雑記

むかしの女性はどうしてた?古雑誌でたどる月経帯からアンネナプキンまで
ニュージーランドの生理用品事情
GEKKAN NZ(月刊ニュージー)という、
ニュージーランド在住の日本人向け雑誌
4月号にて布ナプキン特集の企画があり協力致しました。
「Feature2 布ナプキンのススメ」(34-36ページ)
http://www.gekkannz.net/gekkannz/latest_gekkannz/



編集者さんとのやり取りの中で(ちゃっかりと)現地の生理用品事情を
教えて頂きましたので、ここに書き留めて置きます。

私はオーストラリア製やカナダ、米国製の布ナプキンを
随分前から(2000年頃から)使っているので、なんとなく勝手な想像で、
ニュージーランドでも布ナプキンはメジャーなのだろうと思っていました。

ところが、違うんですね。

まず、生理用品の種類の多さからして、
軽い日用、普通の日用、 多い日用、夜用、多い日の夜用など、
大雑把な私からすると
ホントにこんなに一度の生理期間で使い分けられるの!?と
思ってしまうほど
細かなニーズに対応している日本とは異なるそうです。

あてるかつめるかという処置法選択比率も
タンポンユーザーの方が多い点で違いがあるし、
その詰める処置法を選択する人の中には、
ここ数年通販サイトでみかけるようになった
繰り返し使えるmenstrual cup(月経カップ)ユーザーも
含まれています。

布ナプキンに関しては、
ニュージーランド製のGumdrops Designsや、
米国のPink Daisy、Cozy Folk
というものが現地では市販されているのですが、
布ナプキンというワードに首をかしげる人が多いという認知度だそうです。

先述した私の思い込み
「ニュージーランドでも布ナプキンはメジャーなのだろう」は
健康とオーガニック(実際にオーガニックでなくとも)な事柄が
結びつくことを彷彿とさせるモノについては、
きっと日本よりニュージーランドの方が進んでいると思っていたからです。
愛用者の多いタンポンもオーガニックタンポンが人気だといいます。

この度お世話になったGEKKAN NZの編集者さんの布ナプキンに関する予想は、
ニュージーランドはオーガニックやフリーレンジの食品、健康への関心が高いことから、
今後は布ナプキンの認知も進むのではないかとのことです。
 
世界の生理用品 16:07 -
からだの本vol.03「布ナプデビューしませんか?」
本日12月17日発売のオレンジページ「からだの本」vol.03にて、
布ナプキン特集の監修をいたしました。(34p-37p)

1450332966135.jpg
内容は布ナプキンの基本情報と作り方についてです。
今回のために作った手づくり布ナプキン2種類の写真と、
その型紙も収録されています。
型紙は2種類とも簡単につくることができるプレーンタイプです。

私のサイト、布ナプキンビギナーのための布ナプ生活ガイド・ウーマンケアネットや、
著書『布ナプキンはじめてBook』(泉書房、2012)でもおすすめしている
プレーンタイプの布ナプキン「わのなぷ」は、四角い布のフチをかがったあと、
全体を縫い付けてしまうのではなく、両サイドだけを縫い付けるというものです。

この、わのなぷ仕様だと布の重なりがないため
洗いやすく乾くのもはやいというメリットがあります。

ミシンが苦手な私は専ら手縫いですが、
2,3時間ほどの時間で作ることができると思いますので、
どうぞくつろぎながら手づくりを楽しんでみてください。

◆オレンジページ「からだの本vol.03」目次
http://www.orangepage.net/books/1043

◆布ナプキンビギナーのための布ナプ生活ガイド
ウーマンケアネット
http://nunonapu.chu.jp

◆著書『布ナプキンはじめてBooK』なかみのご紹介
http://nunonapu.chu.jp/mybook.htm
 
徒然日記 15:50 -
今、生理だからと言わず「お姉様、私お月の病気なの」と言う可愛い妹こそビクトリヤ月経帯
現在では生理と普通に口にしますが、昔の女性雑誌をみると
「つきやく」「めぐり」「月の者」というように、
別の言葉に置き換えて伝ていることがあります。

この1925(大正14)年のビクトリヤ月経帯の広告では、
生理を「お月の病気」と言っています。

1925(大正14)年 主婦之友 新年号より

これは園子とお姉様、二人の女性の会話が主体となった広告で、
園子がお姉様からのカルタの誘い(この広告は新年号に掲載)を断ったのですが、
その理由をためらいがちに伝えた時に園子が発した言葉が、

「私けふからお月の病気なの」です。

それに対してお姉様が、
ビクトリヤを使えば「少しも心配はあれはしないわ」と応じて一件落着。
とても分かりやすい宣伝です。

この当時、ビクトリヤ月経帯製造元の大和ゴム製作所は、
材料の薄ゴム国産化に10年以上前に成功し、製品化まで自社工場での
一貫製造をしていて、関東大震災の影響を受けつつも
創業者の回想記によれば、ほぼ独走状態の頃でした。(※1)
また、大学で広告宣伝を学んだ者を雇いそれに力を入れていた頃です。(※2)

大和ゴム製作所にとっては、月経帯業界に怖いものなしだった
のかもしれませんが、他の追随を許さずトップであり続けるには、
園子はお姉様にとって可愛い存在である必要があったのだと思います。
ビクトリヤ月経帯を妹の園子、この広告を見ている雑誌読者をお姉様に
置き換えてみると分かります。

この広告から11年後、
年号が変わっても可愛い存在であり続けるビクトリヤの努力は続いています。

ビクトリヤは「女子衛生時のマスコット」です。

1936(昭和11)年 婦人画報 2月号より

※参考書籍等
1、「ゴム時報」32(5)1953年、「ゴム時報」36(7)1957年
2、「ゴム時報」29(7)1950年

 
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ビクトリヤ月経帯 23:24 -
昭和初期に月経帯よりたくさん広告が掲載されている生理不順薬、通経剤の悪徳業者って酷い
それまで順調だった生理が滞ったり止まってしまったらどうですか?

生理のことを親しい人や家族に対してさえも気軽には口にすることが
できない、百年近く前の女性たちの悩みの深刻さは・・・・・・。

そのせいと決めつけることはできませんが、
当時の女性雑誌の読者投稿のコーナーを見ると、
煩悶する読者からの生理に関する相談が多く掲載されています。

1917(大正6)年『婦人之友』11月号の「産婦人科問答」では、
25歳の女性が年に1、2回しか生理が来ないため、
医師の診断を受け通経剤を服用しているが、
それが体へ悪影響を及ぼさないかについて相談しています。

通経剤というのは生理を促すための薬です。

この質問に対して医師は、
「血液を補う目的の薬で、ために通経し得るならば、そのまま服薬を続けてよし」
と回答しています。

通経剤は1930年代頃までの女性雑誌の広告ではたくさん目にします。
「月やくおろし」「特殊流経剤」「安全に流下」などと書かれていて、
雑誌の号によっては生理用品の広告よりも数が多い場合もあります。

実はこの通経剤、生理不順を整えることとは別の効果を期待して
使われることもあったようです。

生理が来ない、何ヶ月も止まっているという場合、
原因は生理不順だけではなく妊娠した場合も考えられます。
当時、避妊具は販売されていましたが、主に性病予防が目的のため
一般家庭に普及するまでには至っていません。

そのような状況のもと
「2、3ヶ月の滞り、又は長くつきやくなく、血のかたまりなど」を「快治す」る
とか、4、5ヶ月生理が止まっていても効果があるとした薬で、しかも
それが密かに入手できるとあれば中絶の効果を期待して
試みる人もいたのでしょう。
 
毎月丸:1930(昭和5)年 主婦之友10月号より
強経球:1929(昭和4)年 婦人倶楽部11月号より

人知れず入手できる通経剤販売業者の中には悪徳業者もあり、有害なものや
規定量以上の薬物を混入したために中毒死を起こした例や、
広告をみて問い合わせをした人には、パンフレットを送るだけでなく
外交員が出向いて来て、効果のない薬を高値で売りつけ何度も買わせたり、
購入者が一向に効果がないことを責めると、

「あなたのは妊娠でしょう手前共の薬は通経剤で堕胎剤ではありません。
あなたは○○の目的で薬を買ったのですか」と
開き直って脅されることもあったそうです。(※1)

このようなことが当時どれほど問題視されていたのかは分かりませんが、
女性雑誌では通経剤への注意や服用しないようにとの記事もみられます。

1933(昭和8)年の主婦之友6月号の付録で
女性のための健康情報を網羅した『婦人衛生宝典』では、
「いわゆる「通経剤」は謎」の中で通経剤を否定しています。


※参考書籍等
※1、『避妊の常識』野尻与顕(ホーム出版部、1930)
(国立国会図書館デジタルコレクション、コマ番号43〜46)
『「家族計画」への道』荻野美穂(岩波書店、2008)(P92〜98)
『オトメの身体』川村邦光(紀伊國屋書店、1994)(P74〜84)

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月経帯時代の生理用品と広告 22:53 -
昔の月経不順薬の広告で月経と書いてつきやくと読むのは本気と書いてマジと同じなのか?
こちらの広告は月経の二文字に「つきやく」とルビが振られています。

1929(昭和4)年 婦人倶楽部11月号より

難しくて読めない漢字というわけでもない月経に、
どうしてルビが付けられているのか?

月経の「つきやく」という読み方は、明治末や大正時代の月経帯広告にもあり、
生理のことをつきやくと言っていたのでしょう、
月役や月厄という書き方も女性雑誌にはみられます。(※1)

月役の場合だと定期的な生理現象で毎月のからだの役目とイメージできますが、
月厄となると生理を禍、災難と重ねたいほどなのかと思ってしまいます。

確かに、こんな日に来るなんてとタイミングの良さ(悪さ?)を
呪いたくなるようなときもありますが。

実は件の広告は、通経剤という生理不順を整えるための薬の広告です。
生理の悩みを抱える人にとっては、きちんと来ないことこそが禍です。

ルビを「つきやく」としたのは、まるで
月経があなたの悩みの大本でしょうと言っているかのようです。

例えば、本気と書いて「マジ」とか女性と書いて「ひと」のように、
その漢字から受けるイメージとは違うイメージを起こさせるために
必要なルビだったのではないかと思います。

※参考書籍等
1、月経をつきやくと記している雑誌の号
明治41年(1908)2月1日発行 婦人世界
明治44年(1911)11月1日発行 婦人世界

大正9年(1920)9月1日発行 婦人世界
大正10年(1921)11月1日発行 婦人世界 他

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月経帯時代の生理用品と広告 23:01 -
昔の雑誌でからだのために生理用品の手製を奨めていたけど、事情が変わってきた昭和前半
わざわざ拵える必要もなく、持ち運びにも便利で
衣服を汚す心配もない使い捨ての生理用品が広く行き渡り、
入手しやすくなったのは1960年代のことです。

それより半世紀以上も前から生理用品は販売されていましたが、
昔の生理用品の値段と家計内訳をみたら、買わない方が普通なのではないかと
思ったということは前回の記事にUPしました。

入手しやすくなるまでのその間、雑誌では月経処置の方法と併せて
身の回りでよく使われている素材を利用した月経帯の作り方も伝えていました。

大正時代には月経用婦人サルマタを、昭和初期にはメトロンバンドを
考案した東京至誠病院長の吉岡弥生医師は、1929(昭和4)年の
『婦人世界』10月号の「月経時の身だしなみ」と言う記事で
ゴム製の月経帯は通気性に欠けるため、体に直接触れるところには
用いないほうがよいとして、着古したメリヤス(※1)の
シャツを使った月経帯の作り方を指南しています。

吉岡医師以外にも月経帯を自分でつくることを勧める医師がいました。

1933(昭和8)年の主婦之友6月号附録『婦人衛生宝典』で
月経時の正しい摂生法を伝えた順天堂病院産婦人科部長の根本豊次医師は、
市販の月経帯は便利に出来ているが、あまり体を緊縛するものはいけない
として、安い晒(※2)で昔ながらの丁字帯を作り
汚れがひどければ一か月ごとに捨てても構わないと伝えています。

二人の医師に共通している点は、
からだにフィットする月経帯がよくないと考えているところです。

その後、1940年代に入ると全く別の理由で自分で作ることを要求されます。
生理用品も物資不足の影響を受けたからです。
そのため、節約や代用を求められるようになりました。

脱脂綿は捨てずに洗って繰り返し使うこと、どんなに古い襤褸布や端切れも
月経処置用にとっておくこと、配給制の脱脂綿が少なくて困っている
という女性たち(挺身隊)に対しては新聞紙を使うことを提案しています。
少し前までは医師が安い布で作って使い捨てにしてもよいと言っていたのですが。


1945(昭和20)年 主婦之友 新年号より

津村節子の自伝的小説『茜色の戦記』(新潮文庫、1996)には、
1945年当時の月経処置事情が窺える以下のような場面があります。


「空は夕焼けで、茜色に染まっていた。人気のない畠の中の道を、
私と同じ年恰好の女学生が歩いて行くのが見え、
私は彼女に追いつこう、と足を早めた。
空襲になった時、一人よりも二人のほうが心強いと思ったのだ。
その時、彼女のズボンの裾から、何かが落ちた。
彼女はそれに気づかぬように歩いて行く。
私は、落とし物を教えてやろう、と思い小走りになった。
近づいて見ると、それは、屏風だたみにした新聞紙で、
少し色の変わったかなりの量の血液が染みていた。」


※参考書籍等
1、綿糸又は毛糸でつくったのびちぢみする編み物
『角川国語辞典』(角川学芸出版、2009)
2、漂白した木綿や麻の布、
薬品漂白、天日さらし、雪ざらしなどの漂白方法がある。
『改訂版実用服飾用語辞典』山口好文編(文化出版局、1992)


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月経帯時代の生理用品と広告 23:25 -
昔の生理用品の値段をみていたらやっぱり買わないで済ますかもと思った
映画が55銭、あんぱんはその約十分の一でひとつ5銭、
これらは1939年頃の値段です。(※1)

同じ頃の生理用品の値段を大和ゴム製作所のビクトリヤ月経帯の
広告を例にみると、安いもので80銭、高いもので2円40銭。
ビクトリヤという同ブランドの中で3倍の開きがあります。

この値段の差は何かと言うと、ビクトリヤ月経帯は
1910年代、大正時代初めの発売当初は70銭でした。

その後、パッケージに差がある廉価版や、
ネルで腹部と腰を覆った冷え対策型、
経血が漏れて衣服に染みないようゴムが二重のタイプ、
ゴムに凹凸を施した脱脂綿ヨレ防止型、さらには、
月経時だけでなく普段も着用できるズロースタイプなど、
次々と改良版が発売され1939年には9種類に増えたためです。

昭和14年(1939)9月1日発行 主婦之友より

ところで、
一括りに生理用品と言いますが月経帯だけでは生理処置はできません。

月経帯はサニタリーショーツですからナプキンを支えるのが役目です。
1930年代では現在のナプキンにあたるものは脱脂綿でした。

月経帯は他の衣類と同じように一度購入すれば何回も使用できますが
脱脂綿は違います。
現在のナプキンと同じように生理処置に数を必要とする消耗品です。
(※2 中には数回で使用出来なくなる粗悪な月経帯もありました)

下に記したのは1930年代頃の雑誌の家計特集ページから
家計内訳を抜き出したものです。

■1929(昭和4)年 主婦之友 2月1日発行より
福岡の小学校教員の家庭 夫婦、子供3人

・月収 64円
・家賃 6円
・電燈料 1円
・食費 17円(米8円、副食物費7円、調味料2円)
・薪炭費 1円50銭
・被服費 3円
・図書費 4円
・学校支出 5円
・修養費 2円(大毎1円10銭、理学界40銭、主婦之友50銭)
・交際費 2円70銭
・娯楽費 80銭
・主人小遣 2円
・主婦小遣 1円
・雑費 3円
・臨時費 3円
・子供貯金 2円
・貯金 10円

■1932(昭和7)年 主婦之友 4月1日発行より
新潟の小学校教員の家庭 夫婦、子供2人

・月収 45円
・食事費 7円50銭(米味噌6円、副食物費1円50銭)
・修養費 4円50銭(東京朝日90銭、新潟毎日90銭、
教育雑誌50銭、主婦之友50銭、児童読物70銭、参考書1円)
・被服費 1円
・交際費 1円50銭
・受験旅費 3円
・主人小遣 3円
・税金月割 1円
・医薬費 50銭
・天引き貯金 4円
・生命保険 5円
・簡易保険 1円
・子供貯金 2円
・住居燃料費 10円

■1933(昭和8)年 主婦之友 2月1日発行より
福岡の家庭 タイピスト、母、弟
父を亡くし母と弟を養うため職業婦人となった

・月収 56円
・弟学費送金 25円
・会社積立金 1円
・貯金5円
・住居費 4円70銭(家賃4円、電燈代70銭)
・食事費 11円80銭(米3円、副食物費7円50銭、調味料1円30銭)
・燃料 1円50銭
・被服費 2円
・家庭雑費 2円
・小遣 2円
・医薬費 1円

この三つの家族の被服費や雑費が1円から3円という
内訳に照らしてみると、
月経帯一枚の値段が80銭から2円40銭というのは大きな出費です。

加えて、消耗品の脱脂綿です。
脱脂綿はまとまった量を購入していたと思いますが1933(昭和8)年に
発売されていた「シガレット型のシークな小型の函入り」の
クラウン綿というロール状携帯用脱脂綿が1個10銭です。

昭和8年(1933)2月1日発行 主婦之友より

これ一箱で何回取り替えることができたのかは分かりませんが、
タバコの箱に収まるくらいの量なので一生理期間中を賄える
充分な量があったとは言えないと思います。

昔の生理用品の値段や家計内訳をみていたら、
月経処置にお金を使わず家にあるもので間に合わせようとする人の方が
多かったというか、普通だったのかもしれないと思うようになりました。


※参考書籍等

1『値段の明治大正昭和風俗史・上』週刊朝日編
(朝日文庫、1987)(アンパンP177、映画P487)

2『女たちのリズム』女たちのリズム編集グループ編
(講談社文庫、1988)


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月経帯時代の生理用品と広告 23:03 -
月経帯時代の生理用品広告頻出キーワード
衛生、軽快、頗る、自由。
これらは1900年代の初め頃から1945年までの
女性雑誌の生理用品広告の説明文に使われていた単語で 
「頗る暖かで具合よく」や「御運動には頗る自由」、
「安全、衛生、軽快、堅牢で心からなる安らかさ」 のように使われています。

 当時の生理用品広告は、どのような言葉で商品価値を伝えていたのか? 
ということを探るため、1908年から1945年の間に発行された 
『婦人世界』『主婦之友』『婦人倶楽部』など女性雑誌に掲載されている 
生理用品広告約150点の説明文を書写し頻出する単語を調べました。 

頻出単語は「衛生」が一番多く75回、以下 
「安全」42回、「自由」38回、「運動」36回、「安心」「手当」28回、
「粗相」26回、「便利」25回、「心配」21回、「活動」20回、
「憂い・憂鬱」「簡単」17回、「軽快」「健康」15回、「不安」14回、
「頗る」「時代」12回、「簡便」12回、「子宮・子宮病」11回、
「銃後」10回、「節約・代用」8回などです。 

「衛生」というキーワードが生理用品の広告と結びついたのは、
 明治時代半ば以降に、医師たちによって 
適切な生理処置方法が提唱された(※1)ことからだと考えられます。 
適切な処置方法とは、 
それ以前の紙や襤褸布などで自己流の対処法をするのではなく、
 月経帯と脱脂綿のセット使いという方法です。 

それ以外は不適切な方法で病気を惹き起こすとまで言われていました(※1)。 
そのため当時の生理用品広告では、不適切な処置方法を行うと 健康を害し
子宮病やヒステリーになると半ば脅しのように伝えています。 

大正時代に入ると広告の掲載数も徐々に増え、
生理用品は医師の提唱する方法で衛生と病気予防のために使いましょうと
 啓蒙する広告から、「柔軟にして伸縮自在なる独特の材料」のように、
 他社との違いや商品価値そのものをアピールする内容も加わり、 
イラストや図、写真などを使った広告が増えています。

 昭和以降での特徴的な単語は、1930年代後半からみられる
「節約」「代用」に加えて、「今、銃後女性の生活必需品」や、
「銃後を護る明朗女性美」のように 「銃後」が挙げられます。 
「銃後」とは、戦場の後方、直接戦闘しない一般国民(※2)をさす言葉です。 

これらの単語を用いた広告は、
 生理用品の使用目的を別の目的にすり替えて伝えていますが、 
当時では生理用品広告に限ったことではありませんでした。(※3)

 現在の生理用品広告との比較は難しいですが、
その時々の状況(または世相)で 生理用品をアピールし、
売るために用いられた言葉に違いはあっても、
一貫して生理用品の必要性を伝えるという点では
どの年代でも変わらないと思います。 

以上が1900年初頭から1940年代までの生理用品広告の説明文を
書き写し頻出語調べにあたっての覚えです。


 ※参考書籍等 
1『生理用品の社会史 タブーから一大ビジネスへ』田中ひかる
(ミネルヴァ書房、2013)
2『角川国語辞典』(角川学芸出版、2009) 
3『戦う広告 雑誌広告に見るアジア太平洋戦争』若林亘(小学館、2008)


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月経帯時代の生理用品と広告 16:30 -
本日はビクトリヤ月経帯・大和真太郎氏の誕生日です
4月15日はビクトリヤ月経帯を製造した大和真太郎氏の誕生日です。
ということで、今後も調べを継続することを自分に課す意味も含めて
記念の日としての書きつけをしておきます。


大和真太郎氏は今から101年前の1914(大正3)年に
初の国産材料による月経帯を製造販売した人物です。

月経帯は明治時代半ば頃から医師が中心となって月経処置の重要性を教えられた
一部の女性たちのために輸入品が販売されていましたが大変高価なものでした。

大和真太郎氏は1890(明治23)年、福井県三国の生まれで、
名古屋商業学校を卒業し横浜の商館勤務を経て20歳の時、
1910(明治43)年に京橋で輸入雑貨商を営んでいました。

あるとき、輸入のサンプル品の中に
経血を吸収させるための脱脂綿を乗せる長方形のゴムを、
腰に巻いたベルトの前後から吊るしたアメリカ製の月経帯をみて、
これは構造は複雑ではない上に、材料のゴムから作ることが出来れば
 価格も抑えられる、しかも月経帯の需要は大きいということに気が付きました。

画像:1913(大正2)年 婦人之友6月号より
(アメリカからの輸入ビクトリア)

このように書くと月経帯を事業にしようと考えたのかと思いがちで
私も以前はそう思っていましたが、実は関心は月経帯そのものではありませんでした。

この頃の真太郎氏は輸入雑貨商の経営に失敗し次の事業を始めるにあたって、
月経帯が商売になる行けると踏んで着手したというより、
ゴム製品を重視し将来性をみていたようです。

高値になってしまう輸入品に依らず自らの手で製品をつくるため、
英語のゴム製造法の本を入手し独学で製造技術を獲得し薄ゴムの国産化に成功しました。
その製法は、ガソリンで融解したゴムを板上の硝化綿に塗り重ねて行き、
ちょうど良い薄さ(厚みともいえる)になったところで剥すという方法で、
これを機械化することも可能にしました。

こうして1914(大正3)年に売り出されたのが大和ゴム製作所のビクトリヤ月経帯です。

画像:1916(大正5)年 婦人画報3月号より
(右側の妖精と蝶の図はビクトリヤの商標登録)

さらにビクトリヤ月経帯に用いられた薄ゴムの技術は、他にも数多くの製品を生み出し
おしめカバーや防水布に活かされ、レインコートやゴム手袋、海水帽といった
日用雑貨品にも及びました。
一時ルーデサック(コンドーム)の製造もしていたようですが、
これは機械化を断念したことから後年の真太郎氏の回想によると
失敗したもののひとつということです。

真太郎氏の独学と苦心の末に世に送り出されたビクトリヤ月経帯ですが、
新聞や雑誌に広告は出すものの当初はなかなか売行きが伸びず、
宣伝には苦労したとも語っています。

サクラになった家族が雑貨店に出向いては
「ビクトリヤ月経帯ありますか?」「ビクトリヤはいいらしいですね」と
その店が仕入れるまで通ったり、女学校に狙いを定めて寄宿舎の監督にサンプルを送り、
その結果100個単位での注文を取り付けるということもしていました。

地道な宣伝と新聞雑誌への広告掲載を続ける一方で、
製品の研究にも余念がありませんでした。

月経帯の工夫と改善には社員の妻や関係者の女性を「拝み倒して」協力を求め、
その声をサイズやデザインに取り入れました。

身近な女性たちの協力を得て製品づくりをしていましたが、
製作陣の着用中の様子を見たいという申し出だけは強く拒否されたため、
吉原の女性に頼んでみたもののやはり始めは断られ、
なんとか説き伏せて協力を得られたそうです。

ちなみに、大和真太郎氏と同郷で大和ゴム製作所の宣伝担当から
後に同社取締役になった岡崎明郎氏によると、
「月経帯だのサックだのつくっていても吉原に通じている人物はゴム界には少ない」
と語っています。そして真太郎氏については「高潔な人」と言っています。


ビクトリヤ月経帯を世に送り出した大和真太郎氏について、
まだまだお伝えしたいことはたくさんあるのですが、
彼の誕生日である今日、書き留めるのはこの辺にしておきます。


※追記
参考資料
『生理用品の社会史 タブーから一大ビジネスへ』田中ひかる(ミネルヴァ書房 2013)
「ゴム時報」29(7)
「ゴム時報」32(5)
「ゴム時報」33(12)
「ゴム時報」36(7)
その他、関係者より拝借資料等

 
ビクトリヤ月経帯 00:55 -
ビクトリヤ月経帯と大和真太郎氏に関するメモ
明治時代の終わりから月経帯の製造販売に携わった大和真太郎氏と、
彼のつくったビクトリヤ月経帯に関心を持ち、少しずつですが調べています。
今後の自分への宿題の意味も込めてここにメモしておきます。


ビクトリヤ月経帯の大和ゴム製作所創業者、大和真太郎氏は、
横浜の商館勤務の経験を活かし1910(明治43)年に独立し
京橋で開業した輸入雑貨商で失敗するも、
取り扱い品のひとつだったアメリカ製月経帯に商機を見出だした。

自社製の月経帯を発売するにあたり、
当時国内のゴム製造業は発展途上にあったため
月経帯に用いる薄ゴムをアメリカから輸入、加工し販売した。

輸入材料による月経帯の製造販売を続けながら、
大和氏は材料の薄ゴムの製造に自ら挑み苦心の末に成功させ、
これにより輸入に依らず自社工場での一貫製造が実現した。
これが1914(大正3)年に商標登録されたビクトリヤ月経帯だ。

このビクトリヤ月経帯は、価格を輸入品の1円50銭から
半額以下の70銭に押さえ、新聞雑誌に広告を出し、
女学校へ売り込みユーザーを獲得していった。

発売当初、大和氏はどのようにして女学校に販路を
拓いたかというと、寄宿舎の寮母宛てにサンプルを送り
実際に使用してもらうという方法だ。

当時月経帯といえばビクトリヤというほどの売れ行きとなり、
特に女学校からは100個単位で注文を受けたという。

大和真太郎氏と同郷で大和ゴム製作所の宣伝担当、
後に同社取締役になった岡崎明郎氏によると、
ビクトリヤ月経帯は発売後も重要部分を二重にするなどの
改良を重ね、広告には当時人気だった高畠華宵風の図案で
上品に明るく美的な感じを演出することに力を注いだという。

大正時代はほぼ独占状態だったものの、
昭和初め頃になると徐々に後続も増え、なかでも
ゴム業界の会合で熱心に製造法を訊ねてきた
ゴムタイヤ製造メーカーがあった。
それがビクトリヤ最大のライバルとなったフレンドバンドの
第一ゴム創業者、竹内仲治氏だった。

※参考

『生理用品の社会史 タブーから一大ビジネスへ』 田中ひかる(ミネルヴァ書房 2013)
ゴム時報29(7)
ゴム時報30(1)
ゴム時報32(5)
ゴム時報35(10)
ゴム時報51(7)

ビクトリヤ月経帯 21:18 -
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