生理用品と古書の雑記

むかしの女性はどうしてた?古雑誌でたどる月経帯からアンネナプキンまで
今、生理だからと言わず「お姉様、私お月の病気なの」と言う可愛い妹こそビクトリヤ月経帯
現在では生理と普通に口にしますが、昔の女性雑誌をみると
「つきやく」「めぐり」「月の者」というように、
別の言葉に置き換えて伝ていることがあります。

この1925(大正14)年のビクトリヤ月経帯の広告では、
生理を「お月の病気」と言っています。

1925(大正14)年 主婦之友 新年号より

これは園子とお姉様、二人の女性の会話が主体となった広告で、
園子がお姉様からのカルタの誘い(この広告は新年号に掲載)を断ったのですが、
その理由をためらいがちに伝えた時に園子が発した言葉が、

「私けふからお月の病気なの」です。

それに対してお姉様が、
ビクトリヤを使えば「少しも心配はあれはしないわ」と応じて一件落着。
とても分かりやすい宣伝です。

この当時、ビクトリヤ月経帯製造元の大和ゴム製作所は、
材料の薄ゴム国産化に10年以上前に成功し、製品化まで自社工場での
一貫製造をしていて、関東大震災の影響を受けつつも
創業者の回想記によれば、ほぼ独走状態の頃でした。(※1)
また、大学で広告宣伝を学んだ者を雇いそれに力を入れていた頃です。(※2)

大和ゴム製作所にとっては、月経帯業界に怖いものなしだった
のかもしれませんが、他の追随を許さずトップであり続けるには、
園子はお姉様にとって可愛い存在である必要があったのだと思います。
ビクトリヤ月経帯を妹の園子、この広告を見ている雑誌読者をお姉様に
置き換えてみると分かります。

この広告から11年後、
年号が変わっても可愛い存在であり続けるビクトリヤの努力は続いています。

ビクトリヤは「女子衛生時のマスコット」です。

1936(昭和11)年 婦人画報 2月号より

※参考書籍等
1、「ゴム時報」32(5)1953年、「ゴム時報」36(7)1957年
2、「ゴム時報」29(7)1950年

 
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ありがとう最後までお読みくださってどうもありがとうございます。
明治・大正・昭和の生理用品広告集サイトもご覧くださると嬉しいですきゃvネコ

 
ビクトリヤ月経帯 23:24 -
本日はビクトリヤ月経帯・大和真太郎氏の誕生日です
4月15日はビクトリヤ月経帯を製造した大和真太郎氏の誕生日です。
ということで、今後も調べを継続することを自分に課す意味も含めて
記念の日としての書きつけをしておきます。


大和真太郎氏は今から101年前の1914(大正3)年に
初の国産材料による月経帯を製造販売した人物です。

月経帯は明治時代半ば頃から医師が中心となって月経処置の重要性を教えられた
一部の女性たちのために輸入品が販売されていましたが大変高価なものでした。

大和真太郎氏は1890(明治23)年、福井県三国の生まれで、
名古屋商業学校を卒業し横浜の商館勤務を経て20歳の時、
1910(明治43)年に京橋で輸入雑貨商を営んでいました。

あるとき、輸入のサンプル品の中に
経血を吸収させるための脱脂綿を乗せる長方形のゴムを、
腰に巻いたベルトの前後から吊るしたアメリカ製の月経帯をみて、
これは構造は複雑ではない上に、材料のゴムから作ることが出来れば
 価格も抑えられる、しかも月経帯の需要は大きいということに気が付きました。

画像:1913(大正2)年 婦人之友6月号より
(アメリカからの輸入ビクトリア)

このように書くと月経帯を事業にしようと考えたのかと思いがちで
私も以前はそう思っていましたが、実は関心は月経帯そのものではありませんでした。

この頃の真太郎氏は輸入雑貨商の経営に失敗し次の事業を始めるにあたって、
月経帯が商売になる行けると踏んで着手したというより、
ゴム製品を重視し将来性をみていたようです。

高値になってしまう輸入品に依らず自らの手で製品をつくるため、
英語のゴム製造法の本を入手し独学で製造技術を獲得し薄ゴムの国産化に成功しました。
その製法は、ガソリンで融解したゴムを板上の硝化綿に塗り重ねて行き、
ちょうど良い薄さ(厚みともいえる)になったところで剥すという方法で、
これを機械化することも可能にしました。

こうして1914(大正3)年に売り出されたのが大和ゴム製作所のビクトリヤ月経帯です。

画像:1916(大正5)年 婦人画報3月号より
(右側の妖精と蝶の図はビクトリヤの商標登録)

さらにビクトリヤ月経帯に用いられた薄ゴムの技術は、他にも数多くの製品を生み出し
おしめカバーや防水布に活かされ、レインコートやゴム手袋、海水帽といった
日用雑貨品にも及びました。
一時ルーデサック(コンドーム)の製造もしていたようですが、
これは機械化を断念したことから後年の真太郎氏の回想によると
失敗したもののひとつということです。

真太郎氏の独学と苦心の末に世に送り出されたビクトリヤ月経帯ですが、
新聞や雑誌に広告は出すものの当初はなかなか売行きが伸びず、
宣伝には苦労したとも語っています。

サクラになった家族が雑貨店に出向いては
「ビクトリヤ月経帯ありますか?」「ビクトリヤはいいらしいですね」と
その店が仕入れるまで通ったり、女学校に狙いを定めて寄宿舎の監督にサンプルを送り、
その結果100個単位での注文を取り付けるということもしていました。

地道な宣伝と新聞雑誌への広告掲載を続ける一方で、
製品の研究にも余念がありませんでした。

月経帯の工夫と改善には社員の妻や関係者の女性を「拝み倒して」協力を求め、
その声をサイズやデザインに取り入れました。

身近な女性たちの協力を得て製品づくりをしていましたが、
製作陣の着用中の様子を見たいという申し出だけは強く拒否されたため、
吉原の女性に頼んでみたもののやはり始めは断られ、
なんとか説き伏せて協力を得られたそうです。

ちなみに、大和真太郎氏と同郷で大和ゴム製作所の宣伝担当から
後に同社取締役になった岡崎明郎氏によると、
「月経帯だのサックだのつくっていても吉原に通じている人物はゴム界には少ない」
と語っています。そして真太郎氏については「高潔な人」と言っています。


ビクトリヤ月経帯を世に送り出した大和真太郎氏について、
まだまだお伝えしたいことはたくさんあるのですが、
彼の誕生日である今日、書き留めるのはこの辺にしておきます。


※追記
参考資料
『生理用品の社会史 タブーから一大ビジネスへ』田中ひかる(ミネルヴァ書房 2013)
「ゴム時報」29(7)
「ゴム時報」32(5)
「ゴム時報」33(12)
「ゴム時報」36(7)
その他、関係者より拝借資料等

 
ビクトリヤ月経帯 00:55 -
ビクトリヤ月経帯と大和真太郎氏に関するメモ
明治時代の終わりから月経帯の製造販売に携わった大和真太郎氏と、
彼のつくったビクトリヤ月経帯に関心を持ち、少しずつですが調べています。
今後の自分への宿題の意味も込めてここにメモしておきます。


ビクトリヤ月経帯の大和ゴム製作所創業者、大和真太郎氏は、
横浜の商館勤務の経験を活かし1910(明治43)年に独立し
京橋で開業した輸入雑貨商で失敗するも、
取り扱い品のひとつだったアメリカ製月経帯に商機を見出だした。

自社製の月経帯を発売するにあたり、
当時国内のゴム製造業は発展途上にあったため
月経帯に用いる薄ゴムをアメリカから輸入、加工し販売した。

輸入材料による月経帯の製造販売を続けながら、
大和氏は材料の薄ゴムの製造に自ら挑み苦心の末に成功させ、
これにより輸入に依らず自社工場での一貫製造が実現した。
これが1914(大正3)年に商標登録されたビクトリヤ月経帯だ。

このビクトリヤ月経帯は、価格を輸入品の1円50銭から
半額以下の70銭に押さえ、新聞雑誌に広告を出し、
女学校へ売り込みユーザーを獲得していった。

発売当初、大和氏はどのようにして女学校に販路を
拓いたかというと、寄宿舎の寮母宛てにサンプルを送り
実際に使用してもらうという方法だ。

当時月経帯といえばビクトリヤというほどの売れ行きとなり、
特に女学校からは100個単位で注文を受けたという。

大和真太郎氏と同郷で大和ゴム製作所の宣伝担当、
後に同社取締役になった岡崎明郎氏によると、
ビクトリヤ月経帯は発売後も重要部分を二重にするなどの
改良を重ね、広告には当時人気だった高畠華宵風の図案で
上品に明るく美的な感じを演出することに力を注いだという。

大正時代はほぼ独占状態だったものの、
昭和初め頃になると徐々に後続も増え、なかでも
ゴム業界の会合で熱心に製造法を訊ねてきた
ゴムタイヤ製造メーカーがあった。
それがビクトリヤ最大のライバルとなったフレンドバンドの
第一ゴム創業者、竹内仲治氏だった。

※参考

『生理用品の社会史 タブーから一大ビジネスへ』 田中ひかる(ミネルヴァ書房 2013)
ゴム時報29(7)
ゴム時報30(1)
ゴム時報32(5)
ゴム時報35(10)
ゴム時報51(7)

ビクトリヤ月経帯 21:18 -
アンネナプキンから53年、その半世紀前のビクトリヤ月経帯との共通点に関するメモ
今日、11月11日はアンネナプキンが発売された日です。
というわけで、アンネナプキンとその約半世紀前に販売されていた、
ビクトリヤ月経帯との共通点について少し書き付けておきます。


アンネナプキンは、53年前の1961年(昭和36)11月11日に
坂井泰子(よしこ)社長のアンネ株式会社から発売されました。

それまで、明治時代の半ば頃から医師によって近代的で衛生的な生理処置方法が
提唱されていたにもかかわらず、 便利な生理用品は
どこでも誰でも安価に入手可能というものではありませんでした。

アンネナプキンはその後の生理用品に対して、その質の良さ種類の豊富さ、
入手のしやすさなど大きな貢献をしました。

アンネナプキンや日本の生理用品の歴史については、田中ひかるさんの
『生理用品の社会史 タブーから一大ビジネスへ』(ミネルヴァ書房 2013)
に詳細で正確に記されていますので是非、御一読されることをお薦めします。
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便利で快適なアンネナプキンは、美しいイラストを用いた広告や、
巧みなキャッチコピーで人気を博しました。
そのためにアンネを囮に他社の生理用品を売りつける不当な販売行為に利用されたり、
得意先向けのアンネ社の工場見学に紛れ込み類似品を製造されるなど、
アンネナプキン発売から5年で後続会社は300社以上も現れたそうです。

アンネナプキンの登場は市場を賑わせ、現在の便利な使い捨て生理用品の
礎を築いたわけですが、

その約半世紀前の1913年(大正2年)に、
大和真太郎社長の大和護謨製作所からビクトリヤという月経帯が発売され、
このビクトリヤが人気となったことから、
追随する月経帯が多数発売されるようになりました。

昭和6年(1931)4月1日発行 主婦之友より

ビクトリヤ月経帯の広告には当時人気だった高畠華宵の絵を意識した 綺麗な挿し絵を用い、
製品も美しくパッケージされていました。


そして、ビクトリヤもまた模造品が出回ったり、店頭で「ビクトリヤを下さい」
という客に対して、他社の月経帯を売りつけるなどの被害に遭っていたようです。

アンネナプキンの誕生は、生理用品発展の大きな転換点ではありますが、
それは初めて訪れたものではなく、ビクトリヤ月経帯をはじめとする
大正から昭和初期に小さな賑わいをみせた生理用品競争の復活という見方もあるように思います。
以上が今日のアンネ誕生記念日にちなみビクトリヤとの共通点などに関するメモです。

※参考
『生理用品の社会史 タブーから一大ビジネスへ』田中ひかる ミネルヴァ書房、2013
「ゴム時報」29(7)国立国会図書館デジタルコレクション
「ゴム時報」28(11)国立国会図書館デジタルコレクション
 
ビクトリヤ月経帯 23:32 -
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